祥月命日

 

 

なんてことば、いまでも使われているのかしら?とは 日本を離れていく歳月、、

Mosshaven いろいろと日本のことがわからなくなり始めてきたようです。

 

 

2月28日は 父の祥月命日、ちょうど60年目に当たる。 遥か昔のこと、だけれど

父が好んでいたおはぎを作ろうと決めていました。

 

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前日に 小豆を煮ておいて(仕上げにはちみつを入れてみました)もち米は【ここでは中国製しかないから】日本から送ってもらった白米の残りがあるので やわらかめにたいて 衝いて、、

ちいさめにまるめたつもりだけれど あんをかぶせると けっこうおおきい。

上品な赤福のように、とおもっていたのに、、

 

でも味は絶品(自分で言ってる)小豆は近くのHealthy food のお店で買ったので

綺麗な小粒、昔 日系の教会で買っていたのは オンタリオの日系ファーマーが作っていた小豆、これも同じ仕入れのような気がする。  粒がそろっていて ほんとうに上質、やっぱり日本製、と ついひいき目です。

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これも父の好きだった黄な粉をかけて、、、ちょっとお酒も、

結局は自分が食べたくて作っている?  それでも きっかけがないと最近は つくる気になれないし、、、作っているときも いただく時も 父のことを思い出しているのです。

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お酒が強くて (飲みすぎかストレスか)胃潰瘍になり、家で 飲んでいるところを見たことがない。

でも 胃を弱くする以前でも(私は小学校低学年)家では飲んでいないし、外で(かなり)飲んで帰宅しても酔っぱらったところを見ていない。 だから結婚するまで酔っ払った男性を見たことがなかった。

いまでは わが家の直系ファミリー 14人中、私だけが飲めない。

 

あまり言葉を交わしたことがない 無口の父親、

タバコは ゆっくりと いかにも味わうようにふかしていた。

 

口数少ないけれど 物知り、なんでもよく見ていたし、的確な決断力があったように思う。 、銀行出身だったので 経理に関してはかなりの信頼があったようだし、現実派というイメージしかなかった。 

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でも 入院しているときに 学校の図書館で 古事記を借りてきてくれるよう頼まれたことがある。

新聞の俳句や和歌の欄も目を通していた。 文学らしきことなど一言も口にしたことはないけれど、、関心があったに違いない。  

 

結婚前に母にあてた手紙の内容を母から聞いたことがあるけれど あの当時にしては 女性への人格の尊厳も感じられたし ちょっとしたロマンもにおわせて 現実派と思っていた父にも意外な部分があったと 驚いたのを覚えている。 

 

母の家系は圧倒的に文系、といっても 私が実際に知っていた二人の叔父、当時の村では なにかというと 文書や灯籠の絵や書き込みなど 良く依頼されていたらしいし、実際に叔父たちの母への手紙を見ると 達筆で 中々の名文、そして母によると 手紙などは いったん筆を持つと さらさらと書き損じなど絶対しないとか、、

 

(私はまったく逆、手紙などはああでもないこうでもない、誰に似たのか時間がかかるばかり)絵も 描いていたらしい叔父はお茶も生け花も そして植物の育て方もかなりの腕前、

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それに比べれば 父の書く字はいつも (面白みのない)ごつごつしたような ふつうの楷書体、

 

母もきれいな字を書き、文芸の話題が好き、独自のセンスがあり、私の買ってきた洋服等には ほめるか けなすか はっきりとしていて 随分けなされたこともあったけれど ほめるときは人前でも恥ずかしくなるほど自分の娘をほめる(私はこんなに素直になれない)

 

そして 文人タイプの兄たちより 父がどんなに スマートな都会人で (口下手でも)頭がいいのか、と 母は私に自慢していたのだけれど、、本人には言ったことがあるのかしら?  昔は 言葉より態度、きっと父もわかっていたのでしょう。 

 

 

50歳で亡くなってしまった父にかんしては 残念でならなかったし、育ててもらっただけで何もしてあげることもできなかった。  何も 父のことが理解できなかった.

 

でも 父が帰宅すると 玄関に行ってお帰りなさいと云っていたのを喜んでくれていたらしい(これも おしゃべりの母から聞いた)

 

そして最後に亡くなる数日前に 病院に見舞いに行ったら もうすぐ退院、で 歩くこともでき、病院の入り口まで送ってくれた。  病人が 入口まで送ってくれるなんて きっと 喜んでくれたんだ、と思うことにしたい。それにしても お茶の水病院にはなんとなく 悔しい思い出が残る。 それよりなにより 話らしい話もしなかった自分への後悔が 一番おおきい。