日系ヘリテージ

mosshaven2011-06-24



湖畔庭園を出て
日系ヘリテージに向かうと
あの家は?


きっと 当時の 収容所の建物ではないかしら?と
思えるような住まい(でも 今の住人は 日本人とは限らない様子)



標識を見つけて 角を曲がると
アラ(感動)!  簡単な 事務所だとばかり思っていた。



しかも 門だけではなくって、ここにも又 日本の古さをいかした
素晴らしい庭園があり、受付のある 室内(すべて簡素な木材建てでは
あるけれど 年代を経た 懐かしさが伝わってくる〕に 入ると
中年の白人女性〔たぶんボランテイヤ)がにこやかに いろいろと
説明をしてくれ、こちらからも いろいろと 質問。



そのあとは ゆっくりと 園内を見て回る。
柔らかい日差しでよかった。 当時の日系の人々の厳しい生活状態を
目の当たりにみるには 寒い日や冷たい雨では あまりに悲しすぎる。


カナダ全国で 1940年に 各地の収容所へ移された日系の人々の数は
23000人にも及ぶ。  この近辺には 主にヴァンクーバー、北は
プリンス ルーパートなどから 約15,000人ほどが 収容された。


移動中には こんな簡易ベッドに 大勢が一緒に寝泊り、


湿った土地柄 結核患者も多く、ニューデンバーに病院ができるまでは
ヴァンクーバー近くのポープで 療養。 右下の写真が 当時のサナトリューム、




没収された ボートの 一群、



この建物のひとつは 実際にこの場に建っていたそうで、内部もそのまま、



正面からはいると 中央に 台所、



左右に ひとつずつ 部屋があり、 この一室を一家族で住み、中には 6人家族も
いたという。



トイレは 屋外、



水道も 電気も 最初は引いてなくて 勿論  冬は 暖房もない。



初めのころは 男性は 仕事に出て〔家族と会えず)子供や女性は
これらの家が建つまでは 



(原住民の使用していたような)テント住まい、




冬は テントにも 小屋にも こんなに つららが、、、


そんな中でも 器用な日本人、お風呂を作ったり、

後には お風呂屋さんを作り みんなの憩いの場となったらしい。


餅つきを楽しんだり、



収容所の 一角に 門を立て 平和の門となづけたり、


若い人々のパーテイーが 催されたり、又 野球チームをつくって
大分 強かったらしい。


このような 人種差別のために、
このころまでには (移民して以来の苦労がみのって) 大分築き上げてきた 
ものすべてが没収され、
いわれのない 屈辱、不安、挫折感 などから たちあがるために
みずから 戦場の前線に出て(カナダに認めてもらおうと)いった若者も多かった。


その前日に 見た 西部開拓史のような 建物や 生活の様子を見ても
ふーん、という程度で見過ごしてきた私だけれど、



このヘリテージ館では まったくちがった思いで 
目に入る もの すべてが 特別な意味、感慨をもって 
私の胸にひびいてきたような気がする。



半世紀以上前に この土地の この粗末な小屋で まったく新たな生活を
しいられた 日系の人々。  住み慣れた土地から ある日突然 
身の回りのほんの少ない衣類、日用品だけを 持ってたどり着いた収容所。
裏庭に野菜を作ったり、粗末な日用品の中から少しずつ工夫を重ねて
助け合っていた当時のありさまが 彷彿としてくる。


普段 話に聞いていた カナダの日系の 歴史が ここにきて はじめて
自分とつながったような、思い。  入り口の サインにあるように
この日系の歴史の一端、日系人の歩んだ 厳しい道のりを忘れずにいたい。
このニューデンバーに これてよかった。 この旅を 企画してくれた主人にも
感謝したい。


Fort に クイーン エリザベス が、ときいて 
こんな(退屈そうな〕ところへもみえた、というのは ちょっと驚きだったのだけれど、
きっと 女王様は 母国のイギリスから わたった人々が こんな生活をしていたのか、と
(日本人にはわからない)特別の感情をもって ご覧になったのかもしれない。